パドックでは、馬体より先に眼を見る。熱く気合のほとばしった眼。気合を通り越し、冷静さを失った眼。ボーっとした眠そうな眼。ご機嫌でニコニコしたような眼。ギャラリーが気になり、きょときょとした眼。静かに何かを考えているような眼。眼を見て、それで予想が当たるわけではない。が、馬の眼に惹かれてみたいのだ。私の胸をとらえる瞳に出会えた時、どことなく彼らの気持ちに触れたような思いがする。そんな思いに浸ってみたいのである。
馬の眼は、殆ど黒い瞳で覆われている。白目部分はないに等しい。だが時々、妙に白目が目立つ馬がいる。「三白眼」と呼ばれるその眼は、まるで人のそれのようで、意思が強く現れているように感じられる。つい気合が入っているように思いがちだ。しかしそれでは、三白眼の馬はいつも気合が入っていることになる。勘違いしないように、私は瞳の奥まで覗き込むようにする。
Dai Jinの眼もまた三白眼だ。デビューする彼とパドックで出会った私は、すぐその眼に気付いた。そして瞳の奥を覗き込む。しかしよく分からない。やや苛つき気味に歩いているが、その瞳からは強い気合も、あるいは余裕のなさそうな気配も感じられない。よく分からないから、こいつのことを気にするのをやめる。
それにしても、この「Dai Jin」という名前が気に入らない。デビュー前からこの名前には気付いていたが、「大臣」とは随分中途半端に偉そうな奴だ。同厩には「Akihito」なるやんごとなき御尊名を賜った僚馬もいる。血統はいいが、所詮は「右大臣」だか「左大臣」だかの宮仕えに過ぎない。馬主もつまらない名前を付けたものだ。眼も名前もどこか気になるのに、本気で相手にする気になれない。それがこの馬に対する、私の第一印象だった。
レースは、黒曜石のように輝く瞳を持つSoldier Hollowが人気通りに快勝。Dai Jinは最後方から追い込み、初めてのレースで3着に入る。が、その時の私にとってそれは、然したる重要なことではなかった。
その3週間後。2歳戦としてはケルンのWinterfavoriten(Gr.III)と肩を並べる高額賞金レース、Dortmunder Auktionrennen(NL)で、私は再び彼と会った。この時にはMartilloという、デビュー戦で私が見初めた馬が出走したため、他馬のことなど殆ど気にも留めていなかった。しかもMartilloは、秀でたる雄大な馬格の持ち主である。三白眼のDai Jinにはつい目が行くものの、平均より明らかに小さい彼に、それ以上の気は引かれなかった。だが、私は奴を侮っていた。
レースは向正面からのスタート。距離は1400m。私の期待馬Martilloは、大外枠からダッシュで先頭を奪い、そのままハイペースでレースを引っぱる。そして直線コースに入ると同時に、鞍上Mongilは他馬を引き離しにかかった。だがドルトムント競馬場の直線は約650m。この異常に長い直線を押し切るのは難しい。追い出しをワンテンポ遅らせて仕掛けた他馬たちが、直線半ばから一斉にMartilloへ襲い掛かる。粘るMartilloと他馬との攻防。だがその時、大外から1頭、全く違う脚勢で飛んできた馬がいた。Dai
Jinだ。内側の攻防を、我関せずとばかりに彼は一気に抜き差り、先頭でゴールを駆け抜けた。
「やられた!」鞍上は名手Starke。まんまと彼に出し抜かれた。その時私はそう思った。しかし、今はその判断に疑問を持っている。デビュー戦で3着に追い込んだ時、既にDai
Jinは自分の力に気付いたのではないか。そして二度目のこの日、自分のタイミングを自ら試してみたのではないか。何を考えているか分からないその瞳の奥で、奴はほくそ笑んでいたのかもしれない。
冬は休養し、春初戦は2着。私は彼のレースの中で、これだけ生でも映像でも見ていないのだが、観戦した仲間の話では、体が全く絞れていなかったらしい。休み明けのトレーニング代りだったのだろう。5月にケルンで再会した時も、まだ少し余裕があった。だがその余裕は体だけではない。彼の三白眼も余裕の表情に満ちていた。しかしそれは、気合のなさ、あるいは穏やかな余裕とは違う。どこかふてぶてしく見せる余裕。まだ世間知らずのくせに鼻で笑って歩いているような、まるで悪童のような余裕だ。
だがこの日は、彼の思惑通りにはいかなかった。たった5頭立てのうち3頭が同厩。ハナから出来レースみたいなものだ。それゆえ彼の調教師であるSchützは、一つ試してみようと思ったのだろう。鞍上のStarkeは、何とDai Jinをゆっくり先頭へ押し出した。Dai Jinにとって逃げる展開は初めてだ。
「何故俺の好きなように走らせない!?」
どことなく戸惑いを見せながら逃げるDai Jin。直線に入ると、他厩舎の馬に突かれるようにペースを上げるが、やはり自分の望むような爆発的な脚が繰り出せない。思うようにいかないまま、ゴール寸前で僚馬Darlanに頭差出し抜かれてしまった。このレースの後、StarkeはDai Jinに乗らないことを決めた。Dai Jin自身の釈然としない気持ちが、きっとレースにも表れていたのだろう。Starkeは、彼に相性を認められなかったのに違いない。
それゆえダービーへの前哨戦となるUnion-Rennen(Gr.II)では、豪腕Hellierが彼の背に跨った。だがDai
Jinにとってそれは、あまり重要でなかっただろう。この日の彼も、余裕の表情でパドックを歩いていた。相変わらず何を考えているのか分からない眼をしている。しかしどこか人を舐めたふてぶてしさは、更に増していた。 |
「邪魔しないでくれればそれでいい。あとは俺が走りたいように走る。」
道中は再び後方に位置取る。もっとも1番人気の僚馬Storm Trooperが、全く冷静さを欠いた走りで最後方にいたが。
逃げ粘るPalmridgeをNorth Lodgeが交わすと、その内をDai Jinは猛烈な脚で追い込んできた。いつもの大外ではなく、内に切れ込んできたのは、鞍上Hellierの判断であろう。だが彼の仕事は、きっとこれだけだったのだ。ゴール手前50mでNorthlodgeを交わすと、Dai Jinは首差を保ったままゴール板を駆け抜けた。もっともあの脚勢ならもっと突き抜けてよかったはずだ。恐らく彼は、自分の思惑通りにいったことを確信した瞬間に、ふっと笑って息を抜いたに違いない。 |
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Dai Jinはこれで、勇躍ドイツ・ダービーへと歩を進めた。出走登録馬のレーティングでは、もう一つの前哨戦覇者Ransom
O'Warに1位の座を譲り、実際の1番人気も英国からやって来たゴドルフィンの刺客New
South Walesに奪われ、Dai Jinはそれぞれ2位の座に甘んじる。だが、それが彼にとって何の意味があろう。
「他の奴らは関係ない。俺は走りたいように走り、そして勝つだけだ。」
このふてぶてしいまでの自信は、ダービーで真骨頂に達した。鞍上にはフランスのトップジョッキーPeslierを迎えたが、Dai
Jinにとってこれまたどうでもよいこと。スタートが切られると、彼は例によって後方に控える。周囲の目には、行きっぷりの悪さにしか見えないその走り。なぜならPeslierの腕はひたすら追い通しなのだから。
「おい!真面目に走れよ!置いてかれるぞっ!」
そんなPeslierの声が聞こえてくる。実際レース後に彼は「向正面では、まるでダメだと思った。」と洩らしている。Dai Jinは背中で何を言われようと、全く聞く耳を持たなかったのだ。
そして最終コーナーを回ると、Storm Trooperが内から抜け出し、他馬を引き離しにかかる。外からは、最後方に控えていたRansom
O'Warがスパートを仕掛け、一気に前へ。だがDai Jinは?奴はRansomを先に行かせた後、満を持して自らのエンジンに火を点けた。小柄な体を低くし、外埒沿いを奴は矢のように飛んだ。そう、まさに奴は飛んできたのだ。Ransomは自らの左に、舐めた横目で不敵に笑う褐色の風を見たに違いない。彼は慌ててそれを掴もうと手を伸ばすが、それは最早徒労でしかなかった。
とんでもない野郎だ。スタンド前に戻ってきた奴は、鼻を大きく広げて笑っていやがった。ダービーの栄冠を手にしたヒーローを取り囲む人間たち。しかし彼らの間をのし歩くDai Jinの姿は、ヒーローと呼ぶには憎々しいほどのふてぶてしさに溢れていたのである。
「この小僧め。まだまだやらかすかもしれないな。」
生意気な悪童の眼を持つこの馬は、この時私に未来への高鳴る期待を抱かせずにはいられなかった。
そんな折、彼を称えるドイツのニュース記事を読んで、私がこれまでとんでもない誤解をしていたことに気付いた。彼の名「Dai Jin」の由来は、当然「大臣」とばかり思っていたが、ドイツ語では「Und Tschüß」と説明されていた。「それじゃあね。」といった意味だ。中国語の「再見(zai jian)」が、恐らくドイツ人馬主の知識に納まるまでに「Dai Jin」へと発音が変わり、意味も砕けてしまったのだろう。そういう意味では「大臣」以上にいい加減な名前だ。だが、Dai Jinが自分の名の意味を知っていたなら、彼の発する言葉としては実に似合っている。しかし「それじゃあね。」といったニュアンスではない。他馬を抜き去る瞬間に彼はこう呟くのである。
「じゃ、あばよ。」
1ヵ月半後、古馬との対戦を迎えた彼は、再びその台詞を口にした。たった5頭立てではあったが、前年のダービー覇者Next
Desert、Gr.I2勝馬Sabiango、英国コロネーション・カップ覇者Warrasanと、迎え撃つ年長のライバルたちに見劣りはない。パドックでは一際小さいDai
Jinであったが、しかしそのふてぶてしい姿に、年長者たちへ示す敬意など微塵もない。 |
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例により最後方でレースを進めるDai Jin。再び背に迎えたPeslierの腕は、ダービーの時同様動きっぱなし。そして最終コーナー手前でたまらず鞭を放ったPeslierの声が、私には聞こえてきた。
「いい加減にしろ、この野郎!」
「分かったよ。」
そう鼻で答えたDai Jinは、自慢のターボエンジンに火を点ける。その瞬間、彼の脚の回転は別次元のものとなり、内を抜け出したNext Desertを並ぶ間もなく交わしていった。
「じゃ、あばよ。」
私は勝利の花道を戻ってきた彼を出迎える。そして彼は傍らを通り過ぎていく瞬間、私を一瞥した。それはまさしく人を舐めた悪童の眼であった。 |
次なる目標は、世界最高峰のレース凱旋門賞。こいつなら一発やるかもしれない。だが同時に「このままでよいのか?」という疑念も沸き起こっていた。果たして奴の舐めた走りが凱旋門賞で通じるのか?そもそも奴は、どう考えても未完成だ。このくそ生意気な小僧は、一度ガツンと痛い目に合った方がいいかもしれない。その時きっと悪童の眼は、本物のファイターの眼に変わるだろう。そして奴は、正真正銘の名馬へと成長するかもしれない。そんな二律背反する思いを抱きつつ、10月5日フランスの大舞台に立つ彼を、私はドイツの競馬場のモニター画面で見守ることにした。
背中には三度Peslier。鞍上で怒鳴りながら、彼もまたこのふてぶてしい悪童との付き合いを楽しんでいるのだろう。世間知らずの悪童は、同時に無限の可能性を秘めた原石。彼の成長を見守ればこそ、このふてぶてしい態度が可愛くて仕方ないのだ。
世界的には格下のドイツからやってきたDai Jinは、当然人気薄。しかしそんなことは彼には関係ない。この大舞台でも彼は図々しく最後方を進む。世界のトップホースたちを、直線だけでぶち抜くつもりなのだ。Peslierは例によって追い通し。しかも3コーナー手前では、明らかに馬群から置かれている。私にはモニターを通して、再びPeslierのあの声が聞こえてきた。
「いい加減にしろ、この野郎!」
「分かったよ。」
そう答えたDai Jinは馬群の外側へと迫り、ゴールへ向かう直線コースを迎えた。そして自慢のターボエンジンが点火される…。そのはずだった。だがあの別次元の脚が見られない。前を行く世界の強者たちの脚も止まらない。まるで追いつけない。離されていく。彼がゴール板を駆け抜けた時は、既に6頭が過ぎ去った後であった。初めての屈辱。
現場にいなかった私は、レース後の彼の表情を知らない。果たしてどんな眼をしていたのか。悔しさを噛み締めた眼をしていたなら、この馬はきっと変われる。これから一回り大きくなるためには、今頂点を極めてはいけない。無限の可能性を秘めた原石のような悪童には、これはいい薬だったのだ。私はそう自分に言い聞かせ、この結果を受け入れることにした。
だがそんな期待は、間もなく消え失せた。Dai Jinはレース中に、コース上の窪みへ足を突っ込み、実戦復帰不能なほどに痛めていたのだ。ターボ不発もそのせいだったのか。悪童の目覚め…。見てみたかった。怪我で引退とは、あいつらしくない。世界の舞台でもっと揉まれ、本当の男の顔を手に入れてから、ターフを去って欲しかった。
今叶うならDai Jinの眼を見てみたい。今あいつはどんな眼をしているのか。だがきっと、相変わらずの眼をしているのだろう。三白眼の悪童は、あのふてぶてしく生意気な眼のままターフを去っていくのだ。
「じゃ、あばよ。」
そう一言呟いて。 |