erlenhof.gif(587 byte) ネレイーデ物語〜Nereide - Geschichte einer Wunderstute〜

3.空前の電撃ダービー

“ダービー”

 近代競馬が興行されている国で、この名を冠したレースが特別な響きを持たぬところはないであろう。取り分けドイツでは現在でもその傾向が強く、古馬戦最高峰のバーデン大賞と比較しても、「ダービー馬」の称号に与えられる格と栄誉は明らかに大きい。

 ドイツ・ダービーの歴史は、1869年7月11日、「北ドイツ・ダービー」(Norddeutsches Darby)の名で始まる。ドイツにおける近代競馬の始まり自体は、1822年8月11日、バルト海沿岸の旧ハンザ都市ロストック市郊外にあるバート・ドーベランでの開催に遡り、その後メクレンブルク地方を中心に、北東ドイツで急速に人気を広げた。3歳馬限定重賞としては、1834年に始まったウニオン・レネンがドイツ最初のクラシックレースと呼ばれるべきものだが、当時のドイツは独立主権国家の寄せ集め連合で統一国家はなく、ウニオン・レネンは「ダービー」と呼ぶに相応しいレースであったにも拘らず、ウニオン(同盟、連合の意)をもって称すのが妥当であると考えられたのであろう。1842年にブラウンシュヴァイクで、1852年にブレスラウでドイツ地域を対象とした「ダービー」が開催されているが、それぞれ2、3回しか続いていない。名に違わぬ質を備えたレースを催すには、相応の準備と共に時代的条件が必要であったと考えられる。

 「北ドイツ・ダービー」はその名に見る限りローカルな印象を与えるが、「北ドイツ」とは1869年当時、ドイツ語圏のほぼ半分をカバーする政治的統一エリアであった。この時期は、1866年の普墺戦争の結果、マイン川以北の領邦国家群がプロイセンによって「北ドイツ連邦」として政治統一され、一方でオーストリアがドイツ語圏での主導権を失い、来るべきドイツ統一から排除された時期に当たる。オーストリアは1867年に独自の競馬協会を設立、「オーストリア・ダービー」を開始しており、それゆえ「北ドイツ・ダービー」は設立当初から「ドイツ・ダービー」としてのポテンシャルを備えることになった。このタイミングはある意味絶妙であったといえよう。これより早ければブラウンシュヴァイクやブレスラウと同じ運命に陥っていた可能性があり、1971年のドイツ統一からしばらく後では、ウニオン・レネン自体がダービーと同一視される地位を確立し、新たに設立する余地を与えなかったに違いない。ウニオンについては、このドイツ語圏分裂により大ドイツ的統一性の基盤を失ってしまったことが、徐々に地位を低下させていく原因になったと考えられるかもしれない。

 ハンブルク競馬場は、1850年代からベルリンに次ぐ集客量を誇っており、特に夏の連続開催は、現在も残る2歳戦ハンブルガー・クリテリウム(Hamburger Criterium)や長距離戦ランガー・ハンブルク(Langer Hamburg)等がレース格を確立していたため、その最終日に新設された「北ドイツ・ダービー」が重視されたのも必然であった。そして何より、ドイツ競馬統括機関に当たるウニオン・クラブ(Union-Klub)の設立中心人物であり、当時ドイツの最大馬主であったヨハネス・レナート(Graf Johannes Renard)が積極的に有力所有馬をダービーに出走させたことが、レース格の向上に大きく貢献している。1870年代半ばには早くもオーストリア・ダービー馬とウニオン馬が会するレースとなり、1889年に「北」の文字が取れ「ドイツ・ダービー」(Deutsches Derby)と改称されたのは、むしろ「遅ればせながら」というべきものであった。やがてウニオンのトライアル化、国力の衰退に比例したオーストリア・ダービーの地位低下により、遅くとも第一次大戦後にはドイツ・ダービーは別格の地位を築いていた。

 当然のことながら、1936年の競馬人たちにとってもダービーは格別なレースであり、各陣営とも一番の期待馬を万全をもって送り込むことに余念はなかった。取り分けヴァインベルク兄弟(Arthur und Carl von Weinberg)率いるヴァルトフリート牧場陣営では、ネレイーデのライバル、アレクサンドラと、ウニオンに勝って本格化したペリアンダーの2頭を送り込む必勝態勢で臨んできた。だが一方、エーレンホフ陣営は、ダービー週間が始まっても尚、ネレイーデ出走に最終決断を下せずにいた。

 陣営は当初、ウニオン2着馬イドメネウスのみダービーに出して、ネレイーデは本番4日前に行われる3歳限定戦ニッケル・アイントラハト・レネン(Nickel-Eintracht-Rennen, 1800m)だけ楽に使う予定であったらしい。しかし、肝心のイドメネウスがハンザ大賞(Großer Hansa-Preis)でシュトゥルムフォーゲル(Sturmvogel)とトラファーティン(Travertin)の古馬陣、及び3歳ヴァーンフリートにも後塵を拝す4着に敗れたため、最終的にネレイーデとの2頭出しで必勝を期す方針を固めた。但し、この時代は現在と違い、数日間隔の連闘も珍しくはない。ネレイーデは当初予定通りニッケル・アイントラハト・レネンも出走し、勝利を収める。だがそれは予想外の辛勝であった。ヘンケル・レネン(Henckel-Rennen、独2000ギニー)馬ヴァルツァーケーニヒ(Walzerkönig)(3着)が、逃げるネレイーデに競り掛けてハイペースとなり、直線で後方から一気に仕掛けたライヒスフュルスト(Reichsfürst)に頭差まで詰め寄られたのである。そのライヒスフュルストは、ウニオン・レネンの5着馬であった。そのためネレイーデに対する不安は、ダービー当日まで拭われず、結局それはオッズにも反映され、人々は無敗の牝馬ではなく、ウニオン勝者ペリアンダーとアレクサンドラのヴァーンフリート陣営(当時は同一馬主馬統一オッズ)を1番人気に支持したのである。

 1936年6月28日、ハンブルク競馬場は例年になくパンパンの良馬場となった。午後4時半過ぎ、本馬場へと姿を現した10頭の出走馬たちは、世代頂点を目指し、4コーナー手前のスタート地点へと向かった。各馬がスタートバリアの前に到達すると、ネレイーデは最内に位置し、落ち着いた様子でスタートを待つ。しかし、一方でペリアンダーが激しくちゃかついていた。他の何頭かもそれに影響され、落ち着きを失い始める。そこでアクシデントが起きた。スターターが危険を避けるため一旦スタートバリアを開けてしまったのである。だがその意図に気付かなかった一部の騎手たちがこれを誤認し、スタートを切ってしまったのだ。しかもその中にはペリアンダーの姿もあった。彼は約400mは走ってしまい、再びスタート地点に戻ってきたときには、すっかりイレ込んだ状態になってしまっていた。

 改めて10頭がスタートバリアの前に並ぶ。内から、ヴィーナーヴァルツァー(Wiener Walzer)、アレクサンドラ、ネレイーデ、アーベントシュティムンク、イドメネウス、イーテム(Item)、ペリアンダー、ヴァルツァーケーニヒ、ライヒスフルスト、トロイアーゲゼレ(Treuer Geselle)。再び、しかし今度は正しくスタートバリアが跳ね上がった。ネレイーデはいつものように抜群の脚で先頭へ飛び出した。その後ろにアーベントシュティムンクとアレクサンドラがピタリと続く。だがその外から、ペリアンダーが抑え切れない勢いでネレイーデを交わし、先頭へ躍り出た。馬群は激しいペースでスタンド前を通過。ペリアンダーは大きく口を割って首を上げるほど掛かっており、鞍上のシュトライト(Gerhard Streit)は馬を内埒に寄せることもできずにそのまま第1コーナーへ飛び込んで、向正面に入ったところでようやく折り合いをつけた。しかしそれでもハイペースは変わらず、ペリアンダーは2番手のネレイーデを4、5馬身離してグイグイ逃げた。3番手には少し離れてアレクサンドラ、その後ろにアーベントシュティムンク、イーテムが続き、残りは更に離れた後方を追走するという縦長の展開で、向正面から3コーナーへと進んだ。

 迎えた最終コーナー、ペリアンダーは更に加速し、直線へと突入する。3馬身後ろにネレイーデ、その2馬身後ろにアレクサンドラが続き、その後ろは更に大きく引き離された。ペリアンダーは、尚も脚を衰えさせる気配なく直線を突き進んでいく。そこでグラプシュはネレイーデに気合の鞭を入れた。すると彼女の脚は一気に加速。アレクサンドラを一瞬にして置き去りにし、逃げるペリアンダーへと迫った。そして直線半ば、漸く脚がふらつき始めたペリアンダーの傍らを、ネレイーデは並ぶ間もなく抜き去ったのである。グラプシュは、最早誰もこのスーパーホースに手が届かないと確信し、早くもゴール手前50mで手綱を下ろした。そしてネレイーデは、戦前の不安を全て吹き飛ばす圧倒的強さで、栄光のゴールを走り抜けたのだった。

 2着には、力尽きたペリアンダーをアレクサンドラがかわして入るが、ネレイーデとは実に4馬身差に離された入線であった。更に観衆は、その圧勝劇が叩き出したレースタイムに驚愕した。2:28.8。1934年にアタナシウスが作ったダービーレコード2:32.0を、一気に3秒以上も縮めてしまったのである。確かにこの日の馬場は硬かった。暴走したペリアンダーが作ったペースも尋常ではなかった。だが、たとえあらゆる条件を考慮したとしても、このタイムが破格であったことに疑問の余地はない。その証拠に、この記録は1993年にランド(Lando)が塗り替えるまで、実に57年間、一頭も破ることができなかったのである。

 スタンド前に戻ってきたネレイーデとグラプシュを、満場の歓声が迎えた。そこに真っ白なスーツを着込んだ一人の男が揚々と現れた。内相ヘルマン・ゲーリンク(Hermann Göring)である。彼はダービーの象徴である青い襷を自らネレイーデの首に掛け、勝者を讃えた。時代はナチ最盛期である。闇へ葬られたユダヤ人オッペンハイマーが最後に残した馬を、ナチ最高幹部が讃えるこの光景はきっと、当時のごく僅かな人々だけが気付いた、時代の大いなる皮肉であったに違いない。



4. 欧州最強牝馬決戦

はしがき − 3


 

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