erlenhof.gif(587 byte) ネレイーデ物語〜Nereide - Geschichte einer Wunderstute〜

エピローグ 産駒たちとその時代

 多くの競走馬ついて言えることだが、引退後について繁殖記録以外に語れる資料は概ね乏しい。残念ながらネレイーデもその例外ではない。それ故このエピローグでは、彼女が残した産駒たちの、この時代故の運命を辿り、この名牝物語を閉じることにしたい。

 10戦10勝という稀代の記録を残し、故郷エーレンホフ牧場で繁殖入りしたネレイーデの初年度の相手には、シュレンダーハーン牧場の生産馬オレアンダー(Oleander)が選ばれた。オレアンダーは2歳時に被った骨盤骨折によりクラシックこそ棒に振ってしまったが、3歳秋に復帰後は1927〜29年のバーデン大賞3連覇をはじめ、ヴァイマル期ドイツ最強と呼ばれるに相応しい実績を残した名馬である。4歳、5歳時には凱旋門賞にも挑戦、初年は5着、2年目には激しい攻防の末2馬身半差の3着となり、ドイツ馬としては初めて異論の余地ない国際級の評価を得た。このオレアンダーとネレイーデの配合は、いわばドイツ馬産界における夢の組み合わせであった。

 ネレイーデは無事受胎し、1938年春鹿毛の牡馬を出産した。この初年度産駒の名はヌヴォラーリ(Nuvolari)。2歳で順調にデビューし、ラティボア・レネンでは1着入線後、進路妨害で4位降着となったが、その実力の高さは示された。しかしこのレースで繰り上がり1着となったマグナート(Magnat)が3歳になって一気に本格化し、ヌヴォラーリはヘンケル・レネン2着、ウニオン・レネン2着、ダービー3着とマグナートの前に悉く敗れてしまう。結局彼が手にした重賞は、マグナート不在で古馬も手薄であったハンザ賞と、同じくマグナート不在の3歳戦フュルステンベルク・レネンに留る。4歳時はハンデ戦1勝のみと振るわず、彼は世代上位の実力は示しながらも、偉大過ぎる父母には遠く及ばないまま現役生活を終えた。しかし種牡馬としては、1955年のバーデン大賞馬シュターニ(Stani)や1953年にゲーリンク賞(Gerling-Preis)を勝ったサルート(Salut)等を輩出し十分な成功を収めている。またシュターニが1971年セントレジャー馬マトルッツォ(Madruzzo)の母父となり、その産駒ナヴァリーノ(Navarino)も1980年ダービーを制するなど、ヌヴォラーリの血はその後も少なからずドイツ競馬界に影響を残したといえるだろう。。

 ヌヴォラーリの次に競走馬として記録されてたネレイーデ産駒は、同じくオレアンダーを父とする1941年生まれのノルトリヒト(Nordlicht)である。ネレイーデはこの間にも1頭産んでるようだが、不具であったらしい。オレアンダーとネレイーデの配合がヌヴォラーリによってある程度期待度を高めたせいもあるだろうが、1944年3歳春の遅いデビューであったにもかかわらず、エーレンホフ陣営はノルトリヒトの初戦に、いきなり重賞のダールヴィッツ賞を選んだ。しかしやはり敷居は高かったようで、結果は最下位。そこで調教師ボルケは即座に方針を転換、小レースを2戦連勝させて、馬に無理なくレースを覚えさせたのである。

 謂わば裏路線を歩んだノルトリヒトであったが、良血へ寄せる人々の期待は大きく、迎えたダービーでは意外にも2番人気に支持された。そしてその良血に恥じぬ走りで、見事ダービーを制したのである。尚、既に第二次大戦終盤にあったこの時期、ダービーはハンブルクではなくホッペガルテンで行われ、賭けの対象とされたのも、この日はこのレースだけであった。それでも残されている写真を見る限り、競馬場には多くの観客が詰め掛けている。関係者だけの立会いの下、歓声もない中でダービー馬となった日本のカイソウに比べれば、ノルトリヒトの勝利はまだ幸せな方だったといえるだろう。

 この後ウィーン大賞(Großer Preis von Wien, オーストリア・ダービー)に向かい、ドイツ・ダービーには不参戦だったヘンケル・レネン、ウニオン・レネンの勝者ポエート(Poet)と対戦、これを退け、世代の頂点に立つ。しかし続いて古馬との対戦となった帝都大賞では、同厩の古馬の雄ティチーノ(Ticino)らの前に4着に敗れ、世代の壁を超えられぬままシーズンを終える。そして翌1945年、ドイツ第三帝国崩壊によって全ての競馬開催は中止となり、ノルトリヒトはターフに戻る機会を逸したまま短い競走馬生活を終えたのであった。

 だが、その後ノルトリヒトを待っていたのは、故郷エーレンホフ牧場での穏やかな種牡馬生活ではなかった。アメリカ占領軍によりドイツのサラブレッドたちが接収され、ノルトリヒトもその中に含まれていたのである。1940年にドイツがフランスを占領した際、多くの馬がドイツへ「略奪」されたが、このアメリカ占領軍による接収は一応ドイツの競馬関係者の同意の上で実行されている。残念ながら管見の限り、アメリカがどのような経緯でドイツ馬を手に入れようとしたのかは分からない。だがノルトリヒトのみならず、アタナシウスや、1943年にバーデン大賞を勝ったサムライ(Samurai)等、ドイツ馬産界としてはおよそ容易に手放しえない一流馬たちがアメリカへの輸出リストに記載されており、これがドイツ側にとって極めて不本意な事態であったことは想像に難くない。実際には実行されなかったものの、ホッペガルテン競馬場傍にあるドイツ連邦公文書館分館の所蔵史料には、サラブレッド生産及び競馬のための最高機関(Oberbehörde für Vollblut-Zucht und Rennen)によるティチーノの輸出証明書すら残されている。リーディングサイヤーに9回も輝いたティチーノが本当にアメリカへ渡っていたら、戦後ドイツの競馬シーンは全く異なったものになっていただろう。

 大西洋を渡ったノルトリヒトは、一旦アメリカ農務省の所有下に置かれた後、セリでルイジアナ州の牧場に買われ、種牡馬となった。産駒はそこそこには走ったようだが、大物と呼べる馬は残していない。1958年の段階で種付料が1000ドルだったとされ、それが当時どの程度の価値であったのかは判りかねるが、高額といえる程ではなかったことは間違いないであろう。その後1960年代になって、ノルトリヒトは再びヨーロッパへ戻ってくる。フランスで種牡馬として供用されたのだ。だがここでも特に良い繁殖牝馬を宛がわれたわけではなく、ノルトリヒトは結局種牡馬として十分な実績を残すことができなかった。歴史に「たられば」は控えられるべきだが、全兄ヌヴォラーリが重賞ウィナーを輩出する成績を収めていたことを考えると、もしノルトリヒトもドイツに留まっていたら、国内の良い繁殖牝馬に恵まれ、優秀な産駒を多く残すことができたかもしれない。だがそのような恵まれない環境の中でも、ノルトリヒトはある程度小金を稼ぐ産駒を輩出していたようだ。彼は廃用されることなく、その数奇な馬生を27歳という高齢まで全うしたのである。彼の血は、今でも母父としての血脈を通じ、アメリカ、フランスに静かに残っている。

 もう一度1940年代前半へ時計の針を戻そう。オレアンダーとの初産駒ヌヴォラーリが一定の活躍をしたことにより、ネレイーデの母馬としての優秀さも証明された。ノルトリヒトの出産から1年空けた1942年、新たにネレイーデの相手に選ばれたのは、僅か3戦の現役生活のうちにジュケクルプ賞、パリ大賞(Grand Prix de Paris)を制したフランス馬ファリス(Pharis)であった。ファリスとはまさしく、ナチによる略奪の代名詞とされる馬である。これはエーレンホフ牧場のオーナー、テュッセン・ボルネミシャの意向であったのか、或いはフランスの名馬を手に入れ野心を膨らましていたであろう、ナチの競馬推進者ヴェーバーが望んだものであったかは、分からない。いずれにせよネレイーデは、生まれる前より曰くを背負った仔を宿し、翌1943年4月20日、栗毛の牝馬を出産した。ネレーファ(Nerepha)と名付けられたこの牝馬は、しかしネレイーデにとって最後の産駒となった。彼女は出産の2日後、1943年4月22日、僅か10歳にしてこの世を去ってしまったのである。闇に消されたユダヤ人実業家が残した歴史的牝馬ネレイーデは、人間が作り出す憎しみの時代をこれ以上生きることを拒むかのように、人の手の届かぬところへと旅立ったのだ。

 残されたネレーファは無事成長し、エーレンホフ牧場ではネレイーデの貴重な後継繁殖として期待されたはずだ。しかし2歳となった1945年、彼女は兄ノルトリヒトと同じくアメリカ行きの船へ乗せられた。アメリカの接収馬リストには、若駒にファリス産駒が少なからず含まれていた。戦後間もなくファリスの元オーナー、ブーサックが、ドイツで生まれたファリス産駒にはその血統を認めないという厳しい対抗手段に出ることになるのだが、そのような問題性を見越した上で諍いから距離を置けるアメリカが、問題が大きくなる前にうまく連れて行ってしまったと考えられる。アメリカに渡ったネレーファは未出走のまま繁殖牝馬となったが、管見の限り彼女の産駒で確認できるのはネゴシオ(Negocio)という牡馬1頭だけである。この馬の生年は1955年なので、この間にも恐らく何頭かの子どもを残していると考えられる。しかし、少なくとも現在に至る血脈は残っていないようだ。兄ノルトリヒトだけでなく、ドイツで既に種牡馬実績のあったアタナシウスなども、アメリカではこれといった産駒実績を残していない。結局アメリカの馬産家たちは、占領政府が新大陸に連れ帰ったドイツ馬たちを有効に活かすことが出来なかった、或いは活かすことをしなかったのである。

 結果としてネレイーデは、自らの牝系を残すことが出来なかった。ネレイーデと並ぶナチ時代の名牝シュヴァルツゴルトが現在に至る大牝系を築いたことと比べると、残念でならない。しかし、電撃のスピードでターフを駆け抜け、短い馬生を走り去ったネレイーデの生涯は、決して色あせぬ輝きをもって、ドイツの競馬史に伝え残されていくことだろう。また、母ネラダグビオの血は、取り分け妹ナノン(Nanon, 父グラーフイゾラーニ)を通じ、ネッカー(Neckar)やネボス(Nebos)、近年ではネクストデザート(Next Desert)といった名馬を輩出する大牝系Nラインを築きあげた。1924年のバーデンショックを冷静な目で受け止め、誰も目をつけなかった新たな血統をイタリアから導入したユダヤ人実業家オッペンハイマーの先見の明は、彼の非業な最期を超え、ネレイーデという大輪を咲かせたと同時に、戦後ドイツの競馬界を支える大きな礎となったのである。



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