ネレイーデ物語〜Nereide - Geschichte einer Wunderstute〜 |
プロローグ エーレンホフ牧場の光と影時は1924年秋、バーデン開催。第一次大戦勃発以後、国外との交流が閉ざされていたドイツ競馬は、10年振りに外国馬へ開放された。そこに現れたのが、一人のイタリア人であった。ドイツ馬たちは彼の送り込んだイタリア馬たちの前に、悉く大敗を喫する。彼の名はフェデリコ・テシオ(Federico Tesio)、後に世界の血統図を塗り替えるネアルコ(Nearco)を生産した馬産家である。しかし当時のドイツ馬産界はイタリアへの関心が薄く、テシオもまだ無名に等しい存在であった。即ちドイツの馬産家たちは、いわばどこの馬の骨とも分からぬ男に完敗したのである。 このショックは、ドイツに新たな血を求める外国馬の輸入ラッシュを惹き起こした。その中でも鳴り物入りで輸入された種牡馬カリグラ(Caligula)とポイズンドアロー(Poisoned Arrow)には、合わせて120万マルクという大枚が飛んだといわれる(当時のドイツ・ダービー総賞金額が7万マルク)。だがこの2頭は、多くの不受胎を含め期待を見事に裏切り、その他にも半ば冷静さを失った衝動買いによる失敗は相当数あったといわれている。 しかしそのような中で、冷静に、ある意味素直にそのショックをもたらした張本人テシオへ目を向けた者がいた。新興牧場エーレンホフ(Gestüt Erlenhof)のオーナー、モーリッツ・I・オッペンハイマー(Moritz I. Oppenheimer)である。彼はフランクフルトの製紙業界で成功したユダヤ人で、1922年に元々温血種や冷血種馬、牛の生産等に利用されていた牧場を買い取り、サラブレッド生産に参入した。彼はグスタフ・ラウ(Gustav Rau)、リヒャルト・シュテルンフェルト(Richerd Sternfeld)という二人の著名な馬学者をブレインに向かえ、牧場の基幹となる馬を集め始める。そして1924年、バーデンショック後に早くもテシオとのコンタクトを図り、年内に4頭の繁殖牝馬を購入した。更に1926年、4頭の3歳牝馬とネラダグビオ(Nella da Gubbio)という1頭の2歳牝馬をドルメロ(Dormello)牧場から購入したのである。ネラダグビオは未出走ではあったが、1926年イタリア・オークス馬ネロッキア(Neroccia)の半妹に当たる良血で、1935年に生まれるネアルコの従姉にも当たる。この物語の主人公ネレイーデ(Nereide)は、このネラダグビオの5番目の産駒である。1924年のバーデンショックは、混乱ばかりでなく、いわばドイツ競馬史に燦然と花開く大輪の種を蒔いていたのだ。 もっとも、ネレイーデ以前のネラダグビオ産駒はあまり良績を残していない。オッペンハイマーは牧場創設当時、近隣の名門ヴァルトフリート牧場(Gestüt Waldfried)が放出した種牡馬の中からラーラント(Laland)を購入し、ネラダグビオにも専らこの馬を交配させていた。しかし良い馬は輩出されず、更に1931年は不受胎となったため、翌年はラーラントだけでなく、オッペンハイマーにとって最初の(そして最後の)ダービー馬となったグラーフイゾラーニ(Graf Isolani)とも交配させた。それゆえ翌1933年に生まれたネレイーデの血統表には、父として長年2頭の名が併記されていた。見た目はどちらにもあまり似ておらず、全体的な印象がグラーフイゾラーニの母父マジェスティック(Majestic)に多少近かったことから、牧場としてはグラーフイゾラーニの仔であろうという見解だったようだ。しかし後の血液検査の結果、ラーラントが実父として正式に認定されている。 オッペンハイマーは、1927年に早くもリベルタス(Libertas)でディアナ賞(Preis der Diana, 独オークス)を制し、1929年にはグラーフイゾラーニが上述の通りダービーを勝利する等、一躍ドイツ競馬界のトップブリーダーとなった。だがその栄華は、ネレイーデという至高の花を咲かせるより先に、一瞬にして彼の手から奪われてしまう。ネレイーデの命が母の身に宿りこの世に生を受ける間、ドイツは彼の運命を変える新たな時代へと突入した。1933年1月30日ナチ政権誕生である。 エーレンホフの牧では、馬たちは主人の姿を見つけると急いで駆け寄り、彼に唇を寄せる。彼のポケットにいっぱいの角砂糖が隠されていることを知っているのだ。 「ゲーテはコーヒーに6個の角砂糖を入れていたそうだ。ツェッペリンはそれ以上だってさ。」 そう言いながら馬たちに角砂糖を振る舞う平和な日々は、ネレイーデが生まれて間もなく終わりを告げた。経営する会社が破産し、オッペンハイマーは背任罪に問われ逮捕されたのである。彼は反ユダヤ主義の空気色濃い法廷に立たされる中、間もなく病に陥り、裁判は審議続行不能となって中止された。その後、ユダヤ人である彼の行方は誰も知らない。牧場で最後に取り上げた命が、やがてドイツ競馬界に偉大な歴史を刻んだことを彼は知ることなく、時代によって闇の彼方へと葬り去られたのであろう。 エーレンホフ牧場は翌1934年1月、ドイツ有数の鉄鋼財閥創業者アウグスト・テュッセン(August Thyssen)の息子ハインリヒ・テュッセン・ボルネミシャ(Heinrich Thyssen-Bornemisza)によって厩舎ごと買収された。既に自前の小厩舎で持ち馬を走らせていたテュッセンに、アマチュア騎手(といっても、上流階級や軍人将校等が自ら参加した当時の格式ある障害競走の騎手)のアードリアン・フォン・ボルケ(Adrian von Borcke)が、馬産として最頂点レベルにある牧場を是非救ってほしいと強く勧めたのである。ボルケは、オッペンハイマーが残したアタナシウス(Athanasius)でのダービー勝利を保証し、エーレンホフの専属調教師となって、見事その約束を果たしている。 親ナチであった新オーナーは、党幹部と良好な関係を築いており、馬産と競馬運営にも障害なく取り組むことになる。もっとも、兄フリッツ(Fritz Thyssen)がナチ幹部党員でありながら党批判をしたことで逃亡の末に拘禁され、強制収容所送りになっており、それゆえハインリヒが党から全幅の信頼を得られる立場でなかったことは推測できる。戦後に占領政府によって拘束された様子もなく、恐らく政治的には無関心な立場を維持していたのであろう。1947年ハインリヒ逝去後、牧場は息子ハンス・ハインリヒ(Hans Heinrich Thyssen-Bornemisza)が引き継ぎ、ドイツ競馬復興を大いに支える担い手となる。もっともこれ以上は本筋を外れるので、ネレイーデの話へ入ることにしよう。 |